自分が良いと感じる事を良いと感じない人に、そもそもその良さを説く事は不可能なのだ。
僕がカッコイイと感じた物をダサいと言う人にそのカッコよさを説く事は不可能である。
僕が感動した映画に対し何も感じない人にその良さを説く事は不可能である 。
僕が未来があると思う事をそうは思わないと言う人にその将来性を説く事は不可能である 。
今回のアメリカ大統領選挙を見ていてもつくづく思う。
みんな幸せになりたい。この一点はみんな共有できるのに、人はどうしてこうも意見がばらばらなのか。考え方がばらばらなのか。感じ方がばらばらなのか。
それは最終的にはみんな違う生き物だからだ。
見た目、性格、生い立ち、環境、体験、出会い、時代、遺伝子すべてが一人一人違う。
だから物事に対する感じ方も異なり、感じ方が違えば考え方も異なり、考え方が違えば意見も異なる。あたりまえのことだが。
意見の異なる相手にどう頑張っても自分の意見を説得できない理由は、そもそも相手が自分でないからである。
同じく、相手の意見を理解できないのは自分が相手でないからである。
逆に言うと、「こいつの考えマジで意味わからねぇ、しねっ!」って思う相手でも、仮に自分が相手と同じ見た目、性格、生い立ち、環境、体験、出会い、時代、遺伝子すべての要素が同じであれば、必ず同じ意見になっていたし、同じことをしていたと思う。
遺伝子まで全く同じというのは現実的にはあり得ないが、例えば各地でテロを繰り返すイスラム国のテロリスト、私たちは彼らを「ありえない存在」だと思っている。
しかし、もし私たちが彼らと同じような生い立ちや環境、不遇や出会いを体験していたとしたら自分たちも彼らと同じ思想をもっていたかもしれないということだ。
つまり私たちは全てが違い、自分が相手でなく相手が自分でない以上、大前提として完璧に分かりあうことはまず不可能だし、分かりあえないことの方が多い。
自分が良いと感じる事を良いと感じない人に、そもそもその良さを説く事は不可能なのだ。
そして理解できないことが当然なのだから、それにいちいち腹をたてるのは面倒くさい。
とはいえ人間は社会的な生き物であり、自分の感情を誰かとわかちあいたいものである。
人間は理解はしあえないが、一定の距離を保っておけば互いに様々な点を共有できる。
それでいいと思う。そしてその一定の距離というのは人によって様々だろう。