良きパートナーがいたら幸せだ幸福論について。
僕のここ数年の思考のテーマは「幸せとはなんぞや?」ということだった。
一時期は仕事をせず、布団にくるまって、飯を食う時以外、ずっとそれを考えていた。
そしてある日僕の中で一つの思想にたどり着く。
それは、「良きパートナーがいること以上に幸せなことはないのではないか。パートナーの存在は幸福のなかで一番大きなウェイトを占めているのではないか」ということだった。
あえて極端な話をしよう。
・成功して夢も叶いそこそこお金持ちになった。でも良きパートナーに恵まれなかった人生。
・夢も叶わなかった、成功もできなかった、お金もない、でも良きパートナーと出会えた人生。
選ぶとすればどちらの人生を選ぶだろうか?
もちろん人生はそんなに極端なものではないし、両方実現することもできる。
しかし、幸福において良きパートナーという存在がいかに重要か想像できると思う。
ちなみに、ここで言う「パートナー」とは彼氏、彼女、夫、妻とかでいいと思う。
好きな彼女と一緒にご飯を食べ、一緒にテレビ見たり、休日は街へ出掛けたりして、過ごす。
絶対楽しい。平凡な日常を「好きな彼女と共有するだけ」なのに、絶対楽しいと想像できる。ドラクエの呪文に例えるならば、良きパートナー=幸福のバイキルトである。
そして、そこさえ押さえていれば仕事とか他がクソでも、まあ耐えれる、紛れる。良きパートナー=嫌なことのルカナンである。
良きパートナーがいたら幸せだ幸福論。攻守共に良し。結構いい思想だと思った。
そして更にいいのは、実現するハードル高さだ。
それまでは自己実現するかとか、そこそこ成功するとか、幸せになるためにはその辺をクリアしなければと思っていたので、それは仕事苦手で夢とかない僕にとってはかなりハードルが高かった。
でも、良きパートナーさえいればまずまず幸せ、いや結構幸せ。それなら僕も幸せになれるかも。過去に何人か好きだった彼女はいたわけだし。
...
しかしながら、残念なことに「良きパートナーがいたら幸せだ幸福論」を掲げた5年前から今まで、僕は彼女がいない。というか、好きな人すらできない。
この幸福論は、どんな人でも一発逆転できる、社会的敗北者にこそおすすめである。
しかし、偶然や運に左右される。出会いとか縁とか。また、幸せの矛先を彼女一点に集中するため、理想が自ずと高くなってしまう。そこが問題だ。
そして、更にある意味問題なのは、それ以降も色々と考えてみたが、どう考えても、「好きな彼女と過ごす毎日」を超える幸福論が思いつかないことだ。
この幸福論を掲げるのであれば、「良きパートナーがいない」限り、僕はずっとそこそこ不幸ということになる。かといって、現時点でこれを上回る幸福論が僕には思いつかないのだ。