幸せの目的について
『人生の目的は幸せになることだ』なんて言葉をよく耳にする。
それは確かに間違ってないと思う。
僕らは幸せになりたがっている。人生、自分の思う幸せに向かって日々歩んでいる。
でも僕はある時ふと思った。
例えば、『痛み』を感じることによって人間は危険を察知し、結果的に生存確率を上げている。それと同じように『幸せだ』と感じることも、なんらかの生物的なメリットがあるからこそ、そう感じるのではないか。そこに向かっているのではないか。
たぶん、人と人との繋がりに幸せを感じるのは、そうなることで結果的に人と人とがくっつき、恋愛し、繁殖につながるという生物的メリットがあるからこそ、そこに『幸せ』を感じるのだろう。
つまり僕たちは『幸せ』を目的として生き、副産物として生物的メリット(繁殖など)を得る。しかし、実はその副産物こそ真の目的であり、『幸せ』という感情はその為の単なるエサなのだ。
そしてその企みは遺伝子によるものだろう。
僕らは勝手に『幸せになること』を人生の目的と設定し、あれやこれやとやって生きている。
遺伝子の手のひらでまんまと踊りまくっている。
とは言え、結局はそれに逆らう理由もないので、僕も僕を幸せにするためにあれこれやるのだが。
脳にとって、快感は目的ではない。幸福は目的ではない。彼(脳)は、快感や幸福をニンジンのようにぶらさげて他のことをさせようとしているのだ。種や生命の保存あたりが目的だと考えられるが、僕たちがニンジンによって動かされていることに間違いはない。つまり自分の脳には自分以外の存在がいる
— 水野敬也 (@mizunokeiya) 2017年6月18日