世の中はクソである。

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居場所がほしい

日本の洗脳教育♪学校とは社畜養成機関である。

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日本人は「みんな教」の信者だ。みんなと同じことに安心し、みんなと違うことに不安を覚える。

実はこのように日本人がみんな教を信じるようになったのは、国の意図であり、元を辿れば義務教育にある。知識や教養を身につけさせる「教育」というのは実は国民に対する「建前」で、本当の狙いは、国にとって都合のいい人間をつくること。それは国の利益であり、言い換えれば国のために自己を犠牲にして働く優秀な社畜を養成することなのである。「学校=未來の優秀な社畜を育てる社畜養成機関」なのである。そして優秀な社畜を育てる為にはいくつかコツがある。

優秀な社畜を育てるコツ1:考えない人間の育成

まず第一に「考えない人間」をつくることだ。優秀な社畜は仕事の本質を決して問いてはならない。「何のためにこんなに頑張って仕事をしなければならないのだろう?」と考えた瞬間、迷いが生じ、確実に仕事のパフォーマンスは低下する。迷いは人を弱くさせるからだ。そしてこの問いを突き詰めると「仕事とは本来そこまで人生を犠牲にしてまで頑張るほどのものでもない」という結論に確実に至るからだ。そうなると都合が悪くなるのは国である。国のGDP が上がらない、利益にならない。だから義務教育では徹底的に「考えない人間」を育成するのだ。

これまでの学校での授業を思いだして欲しい。学校の教育は基本的に「暗記型」の教育である。「思考型」ではない。テストもひたすら暗記。そんな教育だ。実際に暗記は仕事で重宝する能力なのは確かだ。だが、もう少し思考型の授業やテストがあってもいいとは思わないだろうか?そこにはやはり「考えない人間」つまり社畜を育てようとする国の意図がある。社会にとって考える人間というのは扱いにくく、考えない人間というのはひたすら扱いやすく都合がいいのだ。

優秀な社畜を育てるコツ2:秩序と統制

優秀な社畜は秩序を守り、上司の指示には逆らわず、言われた通りにただひたすらと任務を遂行する。その為には秩序と統制を重んじることが重要だ。となるとまず個性はいらない。目立った個性は秩序を乱し、統制を揺るがすからだ。なので個性は殺し、規格化する必要がある。

まず、ランドセルや制服など見た目を同じにさせることによって心理的に脱個性を図る。個性的な回答は正いことでも間違っていると矯正される。炎天下の下、軍隊並みの統制を求められる体育(組体操など)の授業や、全体主義を鍛える合唱コンクールなど。「脱個性」「みんな一緒」を徹底的に刷り込まされる。そのせいで我々はいつの間にか「みんなと同じでなければならない」「みんなと違うのは恥ずかしいことだ」と思うようになってしまったのだ。これが後の「みんな教」や「量産型」のはじまりである。

さらには中学からはじまる先輩後輩の縦社会文化。先輩(上司)の言うことは無条件で絶対であるという概念を植え付けられ、優秀な社畜としての道を進んで行く。

社畜として育成された私たちの現状

これらが日本の「洗脳教育」である。そんな教育を受けた私達はこうして今大人になっている。なので基本的にみんな同じ、量産型で当然。脱個性、全体主義の世の中である。そして「考えない」で当然。そう教育されてきたのだ。我々の精神は基本「社畜」なのだ。外国人が日本の労働環境に驚愕するのも当然である。「なんかおかしいな..?」と疑問に思ったとしても「みんなそうだしこれが普通だ」の「みんな教」で納得できてしまう。

むしろ考えない方が社会のマジョリティーに属するが故に、正義であり楽である。考えた瞬間(洗脳解除)から、世の中の不合理に気づき、今までの「ふつう」や「みんな」がバカバカしく感じてくるだろう。そうなったマイノリティーはただひたすら生き辛い。楽しくやれた友人とも思想的に分断され、一緒に楽しめなくなる。マイノリティー同士で繋がれない限り心の充実はなくなるだろう。

社畜として育成された私たちの未来

社畜として育成された我々は、仕事において、とにかく余計なことを考えずただひたすらに走り続けてきた。しかし、最近の日本の労働状況はもはや限界にきており、働いても働いても報われない状況になってきている。過労死や自殺問題をはじめ体力的にもこれ以上カバーできない。

人々の中から「なんかおかしい?」「何のためにこんなに頑張って働くのだろう?」「人生って何のためにあるんだっけ?」と、さすがに立ち止まって考えざるおえない状況になってきている。

そんな中、インターネットのおかげで新しい働き方も可能になり、自由な生き方をしている人達が増えている。社会全体もヤフーの週休3日制度導入を皮切りに徐々に変わっていくだろう。さらには急速なテクノロジーの進化も今後ますます追い風になってくる。身軽で失うものが少い若者はこの変化を受け入れやすいと思う。

しかしながら、じゃあどんどんと目に見える速さで社会が変わっていくのかと言われれば、私はそうでもない気がする。今の40代より上の上司世代にとって、変わることは既得権益を損失することになる。いずれ変わらなければならないとしても、積極的に変わることは保身のためにしないだろう。そして、そんな上の世代の人達が圧倒的に多い。

さらには義務教育(洗脳)で骨の随まで染み込んでいる社畜精神やみんな教は簡単には脱せない。みんな教というのは厄介で、文字通りみんなが変わらなければ中々変わらないのだ。逆にいうとみんなが変わりだせば一斉に変わる。良くも悪くも行く末は運命共同体だ。

まとめ

日本人は「みんな教」の信者だ。みんなと同じことに安心し、みんなと違うことに不安を覚える。不合理で空っぽな常識を「みんながそうだから」という理由で疑うことをしない。そんなみんな教は実は国の意図によってつくられたのだ。義務教育という洗脳により我々は国にとって都合のいい人間「社畜」として育成された。学校とは未來の優秀な社畜を育てる社畜養成機関である。徹底的に「余計なことを考えない人間」に成るべく教育され、秩序と統制のため個人よりも全体主義を重んじさせられた。人間の素直な感情や自由を排除させられてきたのだ。

しかし、そんな社畜精神で国のために走り続けてきた我々も、今の不景気で報われない状況に限界を感じている。そしてその状況は少しずつだがそれはテクノロジーの進化と共に変わりはじめている。新しい働き方、新しい価値観、新しい未来。しかしながら、これからも大衆は生かさず殺さずギリギリのところで搾取され続けることは間違いないだろう。

個人的に思うこと

ここまで長々く日本人の「みんな教」や日本の洗脳教育について語ってきた。それは読者の皆さんにそれらの現状を事実として事細かく伝えたかったからだ。それで、じゃあ私はそれ自体についてどう考えているのかというと、、、実はどうでもいいと思っているww なぜなら私は偶然に「みんな教」を脱会した側の人間であり、すでにそのステージからは降りている。

ただし「みんな教」を脱会した後の人生というのは、みんな教を信じる者よりもはるかに過酷であることは間違いない。みんな教を信じている方が楽なのだ。楽しさや辛さとかなんだかんだでみんなと分かち合える。みんな教脱会というのは本当に想像を絶するくらい孤独な旅である。自分の美学を追求する以外に救われる方法はないのだ。

最後に、日本を変えたいとも変えようとも思わないが、もし変わるとするならば、テクノロジーの進化が日本人の常識や価値観を追い越す時だと思っている。ネットでの出会いがあたり前になってきた様にテクノロジーはこれまでの概念や常識を破壊する可能性を秘めていると思う。もしくは、現在の日本の教育を全否定し、丸ごと取り換えて超絶にアップデートするかだと思う。

 

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