「多様性を受け入れよう」「違いを認め合おう」※ただし自分に危害が及ばない場合に限る。
世間でよく言われる「多様性を受け入れよう」とか「違いを認め合おう」などという「柔軟」で「寛容」な言葉に僕は少し違和感を感じる。
なぜならば人は基本的に分かり合えない部分をもっており、その点は絶対に認め合ったり、受け入れたりできないと思うからだ。
それはいわゆる「理解できないこと」であり、理解できないのにそれでも「仲良くやりましょう」と本来ニコニコできないハズである。
しかし、そんな理解できない人と日常生活において調和するということ。また、大きな枠組みで例えるならば、多民族国家では様々な人種や宗教、バックグランドをもった人々が共に暮らしている。
彼らは決して多様性や違いを受け入れ認め合っているわけではない。互いに精神的にも物理的にも距離をとって生きているだけである。
身近な人間関係から国家という大きな人間関係の調和まで共通して言えることは、
「多様性を受け入れる」「違いを認め合う」※ただし自分に危害が及ばない場合に限る。
※ただし自分に危害が及ばない場合に限る。
ということなのだ。柔軟なのではない。寛容なのではない。自由なのではない。フレンドリーなのではない。グローバルなのではない。
結局のところ自分に危害が及ばなければ別にいいという自分事、他人事における許容の精神なのだ。 自分に危害の及ぶことであれば、「認め合う」なんて悠長なこと言ってられないだろう。
迷惑かからないならお好きにどうそ。ただし、こっちのエリアに入ってきたら怒るよ(´・ω・`) ということなのだ。
いや、僕はそれが普通だし、それで全然いいと思う。ただ、柔軟で寛容な偽善的立ち振る舞いに無自覚な人間が気になるだけだ。