世の中はクソである。

世の中はクソである。

居場所がほしい

哲学とは懐疑的合理主義者の心のモヤモヤである。

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僕は俗に言う「天邪鬼」だ。世の中の常識にバカみたいに「なんで?なんで?なんでそうしなしゃいけないの?」とつっかかる。(主に自分の中で冷静に)

ただ、この「問う」という行為は世間的に言うと「哲学」だ。この場合、学問的ではないため「哲学」と言うと大げさであるものの、一般的に言語化するならば、やはり哲学になると思う。

哲学という言葉はなんか偉そうであまり使いたくはないが、ぼくは自分自身を「天邪鬼」であるが故に哲学的な人間だと思っている。

しかしながら、そんなぼくなので当然、ある「問い」にぶち当たる。そもそも、じゃあなぜぼくは哲学的な人間なのか?という問いだ。

合理的に納得したいが故に問うてしまう。

そもそもぼくが世の中の常識に対して「なぜ?」と問うのは、その常識が理にかなっておらず納得できないからだ。

「入社してとりあえず3年は頑張れ」という、とりあえず3年教も「なぜなのか?」また、「なぜ1年ではなく3年なのか?」という疑問を抱いてしまい、それに対する論理的な理由がないとぼくは納得できない人間なのだ。

つまりぼくは理に合わないと納得できない合理主義者であり、いたる所で不合理なこの世の中では、生きていく中で「問わざるおえない」場面が多々あるということなのだ。

じゃあ合理主義者は哲学的な人なのか?

ぼくは、合理主義者とは「表面的な合理主義者」から「懐疑的な合理主義者」まで段階的に存在すると思っている。

一般的に言われている合理主義者というのは「表面的な合理主義者」であり、効率や生産性を重視する人で、世間からは冷徹で人間らしくない人というイメージをもたれている。

一方で「懐疑的な合理主義者」とは理にかなわない不合理を論理的に考え、導く人だと思う。※表面的合理な部分も持ち合わせている。

例えば職場のデスクが散らかっている場合、「表面的な合理主義者」は仕事の生産性を上げるためにデスクの上を整理整頓する人のことだと思う。

一方「懐疑的な合理主義者」はデスクの上を整理整頓しつつ、さらに「そもそも物があるから散らかるのではないか?」と一歩本質に踏み込んで考え、合理的な観点から検証する人だと思う。

そう、ここまでくると「あれ?懐疑的な合理主義者ってなん哲学っぽい。」と感じる。つまり哲学というのは本質追求型の合理であると言える。

 懐疑的合理義者は哲学的な人である。

哲学というのがそもそも「神話にたよるのではなく、自分達でこの世界を説明してみよう」ところからはじまったものらしい。

つまりソクラテスをはじめ、当時の哲学者も世の中の説明できないこと(不合理)を、「理」で納得したかった本質を追求する懐疑的合理主義者だったんだと思う。

哲学の歴史はそんな本質的合理主義者達の心のモヤモヤからはじまったのではないかと思う。