理解できなくとも尊重してあげなくてはならない。
文章として綴れば当たり前のように聞こえてしまうが、僕は最近改めて「人ってそれぞれ違うもんだな」と実感している。つまりそれは「個体差がある」っということだ。
僕はそういう意味では結構「平均的な個体」とはかけ離れている。
労働の話で例えてしまうのだけど、僕は極端に体力がない。極端に忍耐力がない。極端に一つのことが長く続かない。どんな仕事にも不可欠な必要最低限の能力が極端に低い、よって仕事に向いていない。
当然仕事は基本嫌いだし、悪くないなと思う仕事も所詮は「悪くない」「まだマシ」であり、決して仕事を好きにはならない。
職場の飲み会も行きたくない。というかそもそも仕事後にそんなに体力が残っていない。
でも世の中には仕事が好きで、職場の飲み会も楽しみにしている。なんて人が存在するから不思議だなと思う。
そんな人からしてみれば、僕のこの仕事イヤイヤ節なんて完全に「甘え」の一言で終わりだし、仕事後の飲み会に参加しない理由も、「体力が残ってません」なんて言うもんなら「な~にいってんのー?さぁいこいこ!」と完全にスルーされてしまう。
僕はこういうマジョリティの鈍感な態度に長い間ムカついていたのだけど、いや、今もムカついているのだけど、でも「そりゃ理解できるわけないか」と思えるようになってきてから、なんだか少し許容できるようになった。
僕じゃないんだからこの感受性がわからなくて当然だ。
僕というマシーンに一度乗っけてあげたいもんだ。すぐにバッテリーがきれるし、耐久性ひくいし、物事にすぐに飽きてしまうこのマシーンに。そしてその時はじめて気づくだろう「あぁこりゃだめだ」と。「僕くんの言う通りだ」と。
逆に言うと僕は「そっち側」の感覚がわからない。週に5日も労働して、土日も遊びまくれるその体力がわからない。ましてや仕事後に遊びに行く人の感覚なんて全然わからない。
それらはもう「個体差」としか言いようがない。これだけの個体差があればそりゃ同じ感覚なわけがない。そう思えるようになってから少し楽になった。と同時に、僕も自分の中のあたり前が必ずしも他人のあたり前ではない。ということを心しておきたいなと思った。
世の中には何十億とか、こんなにたくさんの人がいるんだ。そりゃ中には僕のような稀な個体がいて当然だと思う。そして理解できないのは当然だけど、「そういう人もいる」という想像力だけはいつだって欠いてはいけないなと思った。
「そっか、君はそうなのか」とできるだけ尊重してあげたい。いや、尊重してあげないといけない。
きっと僕も知らないうちに誰かの感受性を迫害していると思うから。