世の中はクソである。

世の中はクソである。

居場所がほしい

美味しいとか、美しいとか、面白いとか、それすらも自分の感性に従えないのか。

「老舗」の料理屋って実は大したことのない店が多い。もちろん全てではないが、僕の感覚だとそう感じる。

おそらく老舗というのは自らのブランド力に「あぐらをかいている」から、いつまでも味が進化しないんだと思う。なので期待したわりに肩すかしをくらうことが多い。

しかしながら、そんな店を「老舗だから」という理由でありがたがって食べている人が多い。彼らは目の前にある料理を味わっているのか、それとも老舗というブランドを味わっているのか。

味なんて特にそうだと思うけど、自分が美味しいと思ったら、自分以外の全ての人間が不味いと言っても、美味しいんだよ。

自分の感性まで他人の目を気にしていることが気持ち悪いと思うし、たぶんそういうブランドを無条件にありがたがっている人って、既に自分の感性が麻痺しているんだろうなと思う。

自分がそう思うのか、周りが言うからそう思うのか、ごっちゃになっている。

そしてこの現象は「味」に限らず全てにあてはまる。芸術なんて特にそうだと思う。わけのわからん絵に何十億という値段がついている。

しかしながら、その何十億の絵を「わけのわからん絵だ」と言おうもんなら、その人が「芸術をわかってない奴」という烙印を押されてしまう。

でも、その人にとってわけがわからないのであれば、いくら値段が高かろうと「わけのわからん絵」なのだ。逆に、どれだけ値段が安かろうと、ある人にとって素晴らしいものであれば、それは素晴らしいものなのだ。

そしてそれでいいと思うし、それこそが本来の「感性」だと思う。

美味しいとか、美しいとか、面白いとか、それすらも自分の感性に従えない、周りの評価に左右されている人が多い気がする。

なんだか気味が悪い。感性なんて最初から最後まで自分100%で完結するもんだろ。

「自分はこう感じる」という、ただそれだけだろ。

良きパートナーがいたら幸せだ幸福論について。

僕のここ数年の思考のテーマは「幸せとはなんぞや?」ということだった。

一時期は仕事をせず、布団にくるまって、飯を食う時以外、ずっとそれを考えていた。

そしてある日僕の中で一つの思想にたどり着く。

それは、「良きパートナーがいること以上に幸せなことはないのではないか。パートナーの存在は幸福のなかで一番大きなウェイトを占めているのではないか」ということだった。

あえて極端な話をしよう。

・成功して夢も叶いそこそこお金持ちになった。でも良きパートナーに恵まれなかった人生。

・夢も叶わなかった、成功もできなかった、お金もない、でも良きパートナーと出会えた人生。

選ぶとすればどちらの人生を選ぶだろうか?

もちろん人生はそんなに極端なものではないし、両方実現することもできる。

しかし、幸福において良きパートナーという存在がいかに重要か想像できると思う。

ちなみに、ここで言う「パートナー」とは彼氏、彼女、夫、妻とかでいいと思う。

好きな彼女と一緒にご飯を食べ、一緒にテレビ見たり、休日は街へ出掛けたりして、過ごす。

絶対楽しい。平凡な日常を「好きな彼女と共有するだけ」なのに、絶対楽しいと想像できる。ドラクエの呪文に例えるならば、良きパートナー=幸福のバイキルトである。

そして、そこさえ押さえていれば仕事とか他がクソでも、まあ耐えれる、紛れる。良きパートナー=嫌なことのルカナンである。

良きパートナーがいたら幸せだ幸福論。攻守共に良し。結構いい思想だと思った。

そして更にいいのは、実現するハードル高さだ。

それまでは自己実現するかとか、そこそこ成功するとか、幸せになるためにはその辺をクリアしなければと思っていたので、それは仕事苦手で夢とかない僕にとってはかなりハードルが高かった。

でも、良きパートナーさえいればまずまず幸せ、いや結構幸せ。それなら僕も幸せになれるかも。過去に何人か好きだった彼女はいたわけだし。

...

しかしながら、残念なことに「良きパートナーがいたら幸せだ幸福論」を掲げた5年前から今まで、僕は彼女がいない。というか、好きな人すらできない。

この幸福論は、どんな人でも一発逆転できる、社会的敗北者にこそおすすめである。

しかし、偶然や運に左右される。出会いとか縁とか。また、幸せの矛先を彼女一点に集中するため、理想が自ずと高くなってしまう。そこが問題だ。

そして、更にある意味問題なのは、それ以降も色々と考えてみたが、どう考えても、「好きな彼女と過ごす毎日」を超える幸福論が思いつかないことだ。

この幸福論を掲げるのであれば、「良きパートナーがいない」限り、僕はずっとそこそこ不幸ということになる。かといって、現時点でこれを上回る幸福論が僕には思いつかないのだ。

 

人はなぜ幸せを求めるのか?について生物学的に考える。

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「幸せになりたいですか?」という質問に「いいえ、私は幸せになりたくありません」と本心で答える人は地球上に何人いるだろうか?

人は皆幸せになりたいと願う。幸せに向かって日々過ごしていると思う。しかしながら、「なぜ人は幸せになりたいのだろうか?」、、、そんな問いがふと頭をよぎったので黙々と考えていた。

そこでまず思ったのは、人間、必要のない感情や機能は備わっていないだろうということだ。例えば、目とか耳とか怒りとか悲しみも必要だから備わっている。

だとすると「幸せになりたいという気持ち」も何かしら必要だから備わっているはずだ。更に、この欲求はとんでもなく大きな欲求なので、相当人間にとって必要な感情であるはず。

そう考えると、「幸せになる」ということで何か「生物的なメリット」があるのではないかと思った。

その生物学的「メリット」として一番考えられるのは、「子孫を残す」ことだと思う。

つまり、幸せになるということは子孫を残す上で有利なことなんだと思う。だから人は幸せを欲するように遺伝子にプログラムされているのだ

例えば、人から認められることは幸せだと思う。これは、社会的な動物である人間にとって、人から認められることは子孫を残す上で有利だから。だから幸せを感じるようにプログラムされているんだと思う。

誰かと繋がることで幸せを感じるのも、もしそんな感情がなければ、子孫を残す上で不利になるからだ。

お金や権力に幸せを感じる人も、その欲求があると「子孫を残す」ということにおいて有利だからだと思う。

逆に幸せを感じていない状態のときは「虚しさ」「寂しさ」を感じ、「このままではいけない」という感情にさせるようにできている。

つまり「幸せになりたいという感情」は「子孫を残す」ための遺伝子サイドの「都合」であって、それを僕たちは勝手に人生の目的として生きているんだと思う。

なので僕たちの幸せになりたい欲求、なれないと不幸を感じてしまう現象は、我々の遺伝子の「子孫を残せ」という圧力なんだと思う。

いい仲間に出会いたければ自分のバイブスを奏でよう。

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どうも、バイブス(雰囲気・気持ち)という言葉に今更ながら「ウケるなぁ」と思っているポルコロです。

さて、世の中の人達を観察していて思うことは、自分のバイブスを惜しみなく奏でている人の周りにはいい仲間が集まっているということ。つまりバイブス(類)は友を呼ぶということです。

例えば陶芸家とかって、なんか甚平着てヒゲはやして、ろくろ回して、どこかに自分の作った茶碗とかを卸して、たまにイベントがあると参加して作品を売ったり、、、なんか凄い自分のバイブス奏でてるんですよね。

で、観察しているとその人の周りには同じ属性の人が集まっていて、なんか凄く楽しそうにやっている訳です。

僕は陶芸には今のところさほど興味がないので、その人達と気が合うのかはわかりませんが、その人達は同じバイブス仲間同士とても楽しそうで、非常に羨ましく思いました。

やっぱり、自分の好きな物を揃えたり、好きな服を着たり、好きな仕事をしたり、好きなイベントに参加したり、好きな物を作ったり、好きな場所に住んだりすることは自分のバイブスを奏でる行為であり、そうやってバイブス高めに生きている人は、なんとなくいい仲間に恵まれるような気がします。

それって結局「おれってこういう人間なんだぜー!」ってあらゆる方面から発信できているってことだと思うのです。

だから、周りにいる同じ属性の人も「あ、おれと同じだ!」って感じで互いに引き合うんだと思います。

つまり、いい仲間に出会いたい、いい人間関係を構築したいのであれば、まずは自分の気持ちを誤魔化してはいけないと思います。我慢してはいけないと思います。

自分の気持ちに正直に、そしてそれを色んなかたちで発信する、表現することがいい仲間に出会える方法だと僕は思います。

 

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世の中の生き辛さについて最近思うこと。#つぶやき

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