世の中はクソである。

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居場所がほしい

恋愛感情における「好き」の勘違いについて

最近こんな記事を読みました。

価値観の不一致で離婚に至ったカップルが、「じゃあそもそもなんで結婚したのか?」という話で、「相手に迫られたから」というのが一番の理由とのこと。そんなことが記事に書かれていた。

なんか凄い「わかるなぁ」って気がした。

というのも、自分の体験からも思うのだけど、人って割と「好き」を勘違いすることが多いと思う。

どういうことかと言うと、「好き」という気持ち自体に偽りはないんだけど、本来価値感的には合わない人を好きになってしまうことがよくある。

例えば、童貞時代は顔がタイプだとか、ちょっと優しくされたとかで、中身をそんなに知らなくても激しく好きになってしまうことがあった。

童貞に限らずだけど、なんとなく表面的にノリがあったり、ちょっと共通点があったり、タイミングがあったりすると、人はすぐに恋愛感情をもってしまう。

また、逆の立場からするとそれは凄いよくわかる。

「絶対この子のタイプは俺じゃない!」と胸はって言える女の子から好かれたことがあった。ちょっとDQNっぽい子だったんだけど。この子は絶対もっとオラオラしたEXILEみたいな人か、もしくは結構チャラめの人がタイプだ。

なんか僕のことを勘違いしている。たぶん僕という人間を正しく理解していない。僕はキミの思うような人じゃない。

案の定、深い話をするとあまり話がかみ合わず、本質的な価値観や相性はやはりよくないように感じた。

でも相手は自分のことをなぜか好きだから、凄い優しくしてくれるし、ノリはよくて楽しいし、まぁまぁ可愛いし、なんか積極的だし、全然嫌な気はしない。そして、そんな「勢い」とか「ノリ」で結局同棲までしてしまったことがあった。

僕は途中でストップしたけど、そこまでいくとあとは「情」とかも入ってきて、人によってはこんな感じで結婚に至る人は結構いるんじゃないだろうか。

割と表面的な部分で人を好きになって、勢いとかタイミングで付き合って、一緒にいると情が入ってきて、いい歳だからとか世間体も付随して、結局結婚まで至る。

でも、そんな「恋愛モード」も3年とか5年とか、いつかは落ち着いて冷静になる。そして、今まで「恋愛モード」でなんとなく許されていた「価値感の不一致」みたいなのが表にでてきて、「あぁなんか違う」みたいなのになるんだろう。

だから冒頭に述べた、価値観の不一致で離婚に至ったカップルの「そもそもなぜ結婚したのか?」に対して「相手に迫られたから」という理由になんか共感してしまったのだ。

だから僕は「恋愛モード」の状態を全く信用していない。自分も相手も。なぜなら絶対にソレはいつか醒める。ある意味全然ロマンチックじゃないかもしれないけど。

だから、恋愛モード抜きで本質的に価値観や相性が合うのかどうかを見極めるようにしている。

ちなみに僕を勘違いで好きになった子は僕が去ったあと、秒で違う人といい感じになっていた。案の定チャラめの人だった。

そもそも「仕事」に向いてない。

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僕はそもそも働くことが好きではなかった。

好きではない、でもしないといけない、だからせめて働いていることをできるだけ実感しないよう「好きなこと」を仕事にしようと早い段階から思っていた。

それから、僕は両手両足ほど様々なジャンルの職業を転々とした。工場だったり、農業だったり、夜の仕事だったり、WEB制作だったり。色々と自分の「好き」に耳を澄ませ、自分に適する職は何かを考えながら動いた。

 

結果、現在アラサーニート。

そして思うのは「あぁ、僕はそもそも仕事に向いていなかったんだな」ということ。

サッカーに例えてみる。いかにドリブルが上手くても、いかにパスが上手くても、そもそもある程度ピッチを走り回れる基礎体力がなければ、それらの能力を十分に活かすことはできないし、活躍できない。

それと同じようなもので、そもそも「仕事自体に向いていない」場合、どんな仕事をしても、なんかやっぱりダメだ。続かない。

職業に向き不向きがあるように、僕はそれ以前にそもそも仕事自体にも向き不向きがあると思う。

 

だいたいの仕事に共通していることは、メンタル面含め「体力」がいる。そして「忍耐力」がいる。さらにはある程度同じことを繰り返す「継続力」が必要だ。

それらがさっきサッカーの例で言った、基礎体力で、僕は「体力」はないし「我慢できない」し、「すぐに飽きる」。

逆にこれらがある人は仕事に向いている人だ。その上で、自分に合った仕事に出会えれば凄く大成すると思う。

 

そもそも「仕事」に向いていない。

 

なんだそりゃ、思いもしなかったわ。そして人生ハードだわ。

でも、たぶんだけど、僕は子育てとか、家計の管理だとか、家族を運営することとか、そっちは結構できる気がするんだよな。完全に性別ミスってる。まぁ知らんけど。

 

でも「仕事自体に向き不向きがある」ってのはマジであると思うよ。

さっきも言ったように「体力」「忍耐力」「継続力」これが最低限の仕事向きの条件。というかこれがないとまず仕事に向いてない。

【養って欲しいとか意味がわからない】日本人女性のメンタリティが嫌いだ。

 僕はここ数年、日本人の女の子にかなり嫌気がさしている。もちろん、海外の女性がどうとかあまり知らないし、僕の関わった女性が偏っていたということもあるだろうし、一概に断言できるものではないのだけど。

下記、僕がうんざりしている日本人女性像はこんな感じだ。

  • 主体性がない、受け身、すぐ男にリードしてもらいたがる。(でもダメだしはする)
  • 感情的ですぐ流される、自分の意見がない。
  • 男女平等を主張するけど都合のいい部分はレディーファースト。そしてその狡さに自覚がない。
  • 養って欲しいとか言う。大人同士なのに「養う」とか僕には意味がわからない。
  • 今が楽しければよし的な傾向がすぎる。
  • 政治とか国際情勢とかよくわからない。無関心。
  • 会話にユーモアとか面白さが男に比べて少ない。

こうして並べてみると、日本人女性の「主体性の欠如」が全ての根源な気がする。

「主婦になって、いざとなれば養ってもらえる」とか「女は愛嬌あればなんとかなる」みたいな従属的なメンタリティが日本人女性の主体性を奪っている。

主体性がないから、真剣に考えることも、自分の意見をもつことも少なく、なんか楽しければOk的な感じに流れてしまう。

誰かが何とかしてくれるというマインドだから政治や社会への関心が薄かったり、自分から面白いこと言って盛り上げてやろうみたいな感じにもならない。

それでいて「してもらって当然だ」みたいな感じの子が本当に多い。

まぁ確かに世の中可愛いは正義で、多少そんなでも顔とかおっぱいとかに男は屈服せざるをえないところはある。でも歳をとるにつれて、それだけじゃあもう満足できなくなってくる。

 全員が全員でないことはもちろんわかってる。だけど一人の女性として精神的に自立してない女の子が多い気がする。

結局女性がそんな感じだと、社会全体もそっちにながれて、とても幼稚なものになっていく気がする。

まぁあくまでも近年僕の出会った女の子の傾向だし、「いや、そんなことないよ!」という希望に満ちた反論があればむしろ嬉しい。

ニート思想だけど女の子欲求が強い件

最近phaさんの「持たない幸福論」読みました。5年ぐらい前からphaさんのことは知っていたのですが、ここ最近特にphaさんの思想に共感しています。 

お金はあるにこしたことはない、でもそのためにあくせく頑張るぐらいなら、そこそこでいいからもっと時間を有意義に使いたい。とか、集団行動は苦手だけど、いい感じの距離では気の合う他人と繋がっていたい。とか。

phaさんの本を読んでいると共感しかないのですが、でも、、、、なんか少し僕とは違う部分もある気がするんです。

でもどこが違うのだろう、、、そんなことをしばらく考えていたのですが、それがようやくわかりました。

それは「女の子」でした。

僕の思想はphaさんのニート思想に加えて、気の合う彼女が欲しいとか、気の合う女の子と遊びたいとか、そういうのがあるんです。

やっぱり女の子というのは、甘えれるし、セックスできるし、家族をつくれるし、色んな面で同性にはない魅力があります。

それと気の合うパートナーがいれば、孤独にならないし、同棲すれば生活費とか安くつくし、日常がそこそこ楽しくなるし。なんか色々と楽じゃないですか。

もちろん男は男で話が面白かったり、共感できる部分が多かったりして、それはそれで楽しいんですけどね。

という感じなので、そう考えると、全部が全部phaさんと同じような道を辿れないわけです。

もう少し「女の子を意識した行動をとるべきだ」と、そうなるのです。

それにはシェアハウスがベストなのか?それとも一人暮らしの方がいいのか?とか。

同じ繋がりは繋がりでも、もう少し異性を意識した繋がりを求めたり。

でもニート的な思想はそれはそれで軸にあるので、仕事頑張ってモテようとか、そういう考えは全くなかったり。

そうするとどういう暮らし方、働き方、休日の過ごし方が可能な範囲でのベストなんだろうか?ニート思想だからたぶん普通の女の子は受け入れてくれないわけだし。

あくまでも四方八方からモテたいというより(それは無理だし)、気の合うパートナーが欲しいといった感じです。

正直ニートでもお金とか仕事とかその辺諦めきれても、恋愛は諦めきれないって人は結構多いんじゃないでしょうか。生物学的にもかなり強い欲求だと思うし。

とまぁそんなところです。僕は僕のためにニートですがその辺の欲求を満たせるよう頑張ります。そして、その辺の試行錯誤を今後はちらほら書けたらなと思います。

「近くにいる」ことの重要性について。

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電話が発明されて、遠くの人ともしゃべれるようになった。

携帯電話の誕生で、外にいても人と繋がることができるようになった。

ビデオ通話で相手の顔を見ながら話せるようになった。

スマホやチャットのおかげでコミニケーションの敷居はさらに下がった。

テクノロジーの進化により、人との「距離」はどんどん縮まったと思う。そしてこれからも縮まるのだろう。

しかしながら、これだけ「距離」を超越するテクノロジーも、僕は「そばにいる」という物理的な近さというものには到底及ばないと感じている。

結局のところ、電話や、チャットでさえも「用」がなければ連絡をしたりしない。ある程度目的とか、伝えたいことがないとやり取りしたりしない。確かに、そもそも用がないわけだし、本質的にはそれでいいのかもしれない。

でも「近くにいる」と、特に用がなくても話したり、どうでもいいことに共感したり、そこから笑いが生まれたり、なんかそれで気が紛れたり、すごい小さなやり取りの積み重ねから自分と相手だけにしかないノリが生まれたりする。

正直うまく説明できないけど、「用」のないコミュニケーションの果たす役割ってそこそこ大きいような気がする。なんか曖昧だし、言語化できないから軽視されているけど。

 

僕のお婆ちゃんは携帯電話をもっていて、実質、僕とお婆ちゃんは繋がろうと思えばいつだって繋がることのできる状況にある。

でも特に用もなければ、話すこともないので滅多に連絡をとらない。だけど、一緒に住んでいれば、きっと話すこともあるし、笑ったり、関心したりすることもあるだろう。

どれだけ便利な世の中になって、いつでもどこでも繋がることが可能だとしても、「物理的に近い」という状態にはどこまでいっても敵わない気がする。

ヤフーがリモートワーク制度をやめたのも、そんな理由なんじゃないかな。業務をこなすだけなら理論上リモートワークでもOKなわけだけど、やっぱり近くにいて同じ時間を共有するからこそ生まれる何かがあり、それが意外と大事だったりするからに違いない。

世界のどこへいても繋がれる時代にありながら、結局はどこまでいっても、人間にとって「近くにいる」という状態はまた別格なんだなと思う。