中島義道の「不幸論」を読んだ感想。
兼ねてより気になっていた人物、中島義道氏の本「不幸論」を読みました。普通に読みやすく面白かったです。
まず、中島氏は幸福を定義します。しかし、これを全て満たすことは不可能であるため、人は幸福にはなれないという話の流れです。
その幸福の定義は以下4つ。
1、自分の特定の欲望がかなえられていること。
2、その欲望が自分の一般的信念にかなっていること。
3、その欲望が世間から承認されていること。
4、その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れないこと。
特に4番が不可能のようです。極端に言うと人間は生きているだけで誰かの迷惑になっている、誰かを不幸にしているため、その真実から目を逸らすこと以外で4を満たすことはあり得ないとのことです。
そして自分がマイノリティであれば3の欲望を満たすことも難しいでしょう。
続いて、こんなことも書かれています。
幸福になる秘訣などどこにもない。あるとしても、それは、真実をみないで催眠術にかかる秘訣のようなものである。
幸福とは、思考の停止であり、視野の切り捨てであり、感受性の麻痺である。つまり、大いなる錯覚である。
世の中には、この錯覚に陥っている人と、陥りたいと願う人と、陥ることができなくてもがいている人と、陥ることをあきらめている人がいる。ただそれだけである。
僕がこの「不幸論」を読んで思ったこと、いやそれ以前から思っていたことで、この本に共感できることは、人間は鈍感であるほど「幸せ」であるということだ。
余計なことを考えない。本来誤った事実であっても、考えないからそれが真実でないことにも気づかない。だからそれはそれで幸せであるということだ。
しかしながら、一度真実を知ってしまい、目が醒めたことを自覚してしまうと、もう元には戻れず、幸せにはなりにくい。
しかし、僕がこの本を読んで嬉しかったことは、はじめの(1)~(4)で中島氏なりに幸せを定義したこと。そして正直この本でいうところの(4)に対する中島氏の見解はあまりにも極端なのでスルーできるなと思ったことである。
確かに誰かの欲望を実現することは、他の誰かを不幸にしてしまうかもしれいが、その部分だけは考えすぎるとキリがない。それを言ってしまうと何もできなくなる。
なので、すまないが(4)は "見ぬ" として考えると幸福の条件は(1)~(3)を満たすことになる。
1、自分の特定の欲望がかなえられていること。
2、その欲望が自分の一般的信念にかなっていること。
3、その欲望が世間から承認されていること。
4、その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れないこと。
つまり(1)~(3)を満たし、(4)は触れず、欺瞞的に生きるのであれば、僕もまずまず幸福に生きていけるかもしれないということだ。
だいぶ中島氏の「不幸論」から遠のいてきたが、僕は自分の人生は既に不幸が確定しているとしても、最後まで足掻きたい性分なのだ。
ちなみに僕は過去に「幸せとは気の合う人と過ごすこと」だと述べた。
そしてそれはこの(1)~(3)をまずまず満たすと考えることができる。
(1)気の合う人と過ごせば何をしてもある程度充実する。
(2)気の合う人は信念を共有できる人物である。(前提)
(3)世間から承認されてはいないが、気の合う人に承認されている。
なので僕の考える幸福論はそこまでズレてはいないだろうと思った。少なくとも自分の中では。
ちなみに「不幸論」の感想に話を戻すと、結局人は「死ぬ」のだから、そこを考える限り生まれながらに不幸は確定だそうだ。
僕は「死」に対しては中島氏よりも遥かに思考停止なのでそこに関してはスルーできる。
本を読むことが苦手な僕だが、興味があったからか、面白かったからか、「不幸論」は割とスイスイ読むことができた。感受性のマイノリティを自覚する人であれば、是非読んでみるといいと思う。