世の中はクソである。

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居場所がほしい

偏見をもつことは決して悪いことではない。精度の高い偏見は人生を最適化する。

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偏見とは未知の物事を勝手に決めつけることだと思う。

「それって偏見じゃない?」とよくいわれるように、世の中において「偏見」とは陰険でネガティブなこととして扱われている。

しかし僕は偏見をもつこと自体は決して悪いものではなく、むしろ人間にとって偏見は必要な機能だと思う。

そもそも偏見の役割とはなんなのか。
仮に偏見という機能が人間に備わっていなかったらどうなるのか。


たぶん悟空とかルフィとかみたいになるんじゃないだろうか。


無垢で無防備で誰に対しても偏見なく非常にオープンだ。
しかし、彼らは強い。だからオープンで無防備でも問題ない。強いという前提があるから。


しかし現実世界、全く偏見をもたず生きていくには無防備で危険だ。

時に騙され、生命の危険すらあるかもしれない。
だからこそ人間は進化の過程で偏見という機能が必要だったんだと思う。


偏見とは悪く言えば「勝手に決めつける」ことであり良く言えば「過去の体験や周りの評価を参考に未知なる物事を判断するフィルター機能」だ。


確かに時としてその判断は間違っていることは多々あるけど、生物としてその機能がないよりはだいぶマシである。
つまり、偏見をもつこと自体は決して悪いものではなく人間にとって偏見は必要な機能だと思う。


しかしながら偏見自体は必要な機能だけれども、偏見の質は大事だと思う。
偏見という物事を判断するフィルター機能(見る目)の精度が問題だ。


精度の低い偏見
例えば、つまらない人間のつまらない噂話や悪い評判を鵜呑みにし、まだ話した事もない人に悪い偏見をもち全く関わろうとしない。

個人的に僕は「話してみないと人間なんてわからないだろう派」なので、上記の人間は偏見によって「出会いという機会を損失」したと思っている。
ケースバイケースだとは思うけど、噂を鵜呑みにする系の偏見は、偏見の質が低いと思う。

なぜならば噂話という信頼性の低いデータを参考にし判断しているので、その偏見は賢く機能していない。

精度の低い偏見だと言える。


精度の高い偏見
逆に精度の高い偏見の例だと、個人的に僕は「外観の悪いラーメン屋に美味いラーメン屋なし」と言う確固たる自論を持っている。

実際にラーメン好きなので色んな店に足を運び築き上げた自論だ。
外観の悪いラーメン屋の人からは「うちのラーメン食ってもないのに勝手に決めつけるなよ!」と確実に言われるが、残念だが食うまでもない。

周りからすればこの自論は完全に僕の偏見だけど、他人の評価や世間の評価ではなく自分の評価を参考にした、それも数多くのデータを参考にしている点において精度の高い偏見と言える。
この精度の高い偏見が機能しているおかげで、不味いラーメン屋という危険因子を回避しまくっているのだ。

そしてこれも偏見である。

 

まとめ
・偏見とは悪く言えば「勝手に決めつける」ことであり良く言えば「過去の体験や周りの評価を参考に未知なる物事を判断するフィルター機能」である。


・偏見が全くないと危険であり、人間にとって必要な機能だ。


・偏見をもつこと自体は悪いことではないが、問題は偏見(フィルター)機能の精度である。


・基本的に偏見の精度が低いと損をし、偏見の精度が高いと損を回避できる。

 

偏見とは危険や損失を回避し、限りある人生を最適化するために備わっているフィルター機能(見る目)だ。

その精度を上げる為にはトライ&エラーと、時に未知なるものに飛び込む勇気が必要だと思う。

 

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